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郡山合戦

背景

安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就が、戦国大名として雄飛する第一歩となった戦いです。

 

戦いの背景については、従来、元就が大内氏に帰参したことに対し、これを裏切りとした尼子詮久(後に晴久)が、元就を討伐するために安芸に遠征し、起きたものとされてきました。

 

しかし、最近の研究によってこの通説が覆され、尼子氏の目的は安芸・頭崎(かしらざき)城の救援にあったとする説が有力になっています。

 

頭崎城は安芸における尼子氏の前線基地で、大内氏の最重要拠点・槌山城を睨む位置にありました。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元

 

吉田龍司著「毛利元就『悪逆無道』と呼ばれた男」では“隣接”という表現が使われていますが、二つの城は約15kmほど離れています。

 

戦いの前年、1539年(天文8年)までは、大内氏は北九州に、尼子氏は播磨に遠征しており、安芸では武田・沼田小早川・平賀興貞・吉川 vs 弘中隆兼・毛利・平賀弘保・竹原小早川という図式で攻防戦(小競り合い)がくり広げられてきました。

 

事態が動いたのが、1540年(天文9年)1月。大内義隆が安芸に向けて出陣したのです。これに呼応するかのように、沼田小早川の小早川正平が大内方に寝返り、さらに6月には尼子方の武田光和が急死。頭崎城の平賀興貞は孤立状態に陥りました。

 

情勢の変化を受け、頭崎城を救援する目的で尼子詮久が出陣を決意。第一攻略目標として、本領に近く補給を確保しやすい大内方の要衝・吉田郡山城が選ばれました。安芸国人の盟主である毛利を屈服させれば、他の国人衆も尼子になびくであろうという計算もあったものと思われます。

 

戦いの経過

1540年(天文9年)9月4日

尼子詮久が3万を率いて多治比(風越山。吉田郡山城の北西4km)に着陣【@】。

 

9月5日

尼子勢が吉田上村の民家に放火。毛利勢は応戦せず【A】。

 

9月6日

尼子勢が4500余騎で太郎丸の町屋敷に放火。そのまま吉田郡山城に攻撃を仕掛けようとした。しかし毛利軍の激しい抵抗に遭って数10名が討ち取られ、攻撃は失敗する【B】。

 

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9月12日

尼子軍は軍勢を数部隊に分け、再び城下(後小路)に進出して放火。これに対して毛利方は、渡辺通や井上元景などが出陣した。元就は、最初に多治比川を渡って突進させた足軽30人程度をすぐに退却させ【C】、尼子勢に敗走兵を追わせて誘引したところで、鎗分(やりわけ)に潜ませた伏兵で尼子勢の側面を急襲させた【D】。
元就の罠にはまった尼子勢は、高橋元綱や本城信濃守らを含む数10名が討死した。この戦いは「鎗分・太田口の戦い」と呼ばれる。同じ日には城の南側正面にあたる広修寺や祇園の縄手でも激戦が繰り広げられたが、いずれも尼子勢は撃退され、風越山の本陣に撤退した【E】。

 

9月23日

尼子軍が本営を青光山に移設。湯原宗綱・湯惟宗らは青山、高尾久友・黒正久澄・吉川興経は光井口に陣取った【F】。軍記物などでは、郡山の背後にある甲山(かぶとやま)に尼子軍が陣取ると郡山城の自由が著しく牽制されることから、間者を使って城の南側に移るよう工作したとされている。
尼子軍の陣替えを知った毛利勢は、手薄となった風越山の残営を急襲し焼き払った【G】。

 

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9月26日

尼子軍の湯原宗綱は1500の兵を率いて南方の坂・豊島(旧向原町)方面に進出、毛利方の後詰めとして駐留していた小早川興景の陣を攻撃した。
しかし、小早川勢は大内軍の先鋒・杉隆相勢と共に反撃。郡山城からも粟屋元良が出撃して湯原勢を挟撃した。池の内方面(旧甲田町)まで及んだ追撃戦で湯原勢は壊滅、日没直前には深田に馬を乗り入れて進退に窮した湯原宗綱が討死した(池の内の戦い)。

 

10月11日

尼子誠久らは1万余の兵を率いて郡山城下に進出、民家に火を放ち、徐々に城に肉薄しようとした【H】。
これを察知した元就は、わずか2千の軍を三分して対抗した。
渡辺通・国司元相・児玉就光ら500の伏兵を三日市−多治比川間の竹林に配置【I】
桂元澄・粟屋元眞ら200の伏兵を十日市−常友間の藪陰に配置【J】
元就自身は総大将として1300の兵を率い、城正面の祇園谷から尼子軍に突進【K】
尼子軍は三沢為幸らがこれに相対して激戦を交えたが、毛利軍の伏兵が作戦どおりに左右側面から攻撃。元就の本隊と合わせて三方面からの合撃で、数にまさる尼子軍も隊伍を崩して潰走。
士気上がる毛利軍は、青山山麓の誠久の本営に肉薄。激戦の末、三沢為幸らを数十人を討ち取って、勝鬨を上げた【L】(青山土取場の戦い)。

 

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12月3日

山口から長駆来援した陶隆房が、兵1万を率いて山田中山(甲田町上小原)に着陣【M】。

 

1月11日

陶隆房が郡山城西の天神尾に陣替えした【N】。

 

1月13日

払暁、毛利勢は宍戸元源・小早川興景らの兵と策応して、宮崎長尾に屯営する尼子軍(高尾久友・黒正久澄・吉川興経ら)に肉薄。高尾・黒正勢を撃破して吉川勢と激戦を展開。毛利勢は三沢蔵人・高尾久友らを討ち取って凱歌をあげた(宮崎長尾の戦い)【O】。
一方、陶隆房率いる大内軍は、戦場を大きく迂回して背後から青光山の尼子詮久の陣を襲った【P】。この戦いで尼子経久の弟・久幸が討死。
戦闘後、尼子軍は善後策を協議し、出雲への撤退を決定。夜半に陣を引き払って生田方面に遁走した【Q】。

 

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影響

これは、そっくりそのままWikipediaからの引用でまとめるのがよさそうです。

 

尼子氏

吉田郡山城攻めに失敗したことで、同年1月末までに頭崎城の平賀興貞も降伏。後述の通り安芸武田氏や厳島神主家などの安芸における尼子方勢力も駆逐される。安芸・備後・石見のみならず出雲でも国人領主たちの多くが離反、備前・播磨では赤松氏や浦上氏が勢力を盛り返すなど、膠着状態であった中国地方の勢力争いは大きく動いた。そして、11月13日には尼子経久が病没。この機に乗じて尼子氏を叩こうとした大内義隆により、室町幕府から尼子討伐の綸旨も出されるなど、尼子氏は窮地に追い込まれた。

大内氏

吉田郡山城救援に成功した大内軍は、続けて桜尾城や佐東銀山城など周辺の反大内勢力を毛利氏と共に制圧。義隆が安芸守護に任じられたため、弘中隆包を安芸守護代に任じて厳島を含む安芸の支配体制を強化している。尼子氏と大内氏の立場が逆転したこの戦いにより、大内方に鞍替えした主要な国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が提出される。これを受け、陶隆房らの主導により、天文11年(1542年)大内義隆は出雲へ遠征する(第1次月山富田城の戦い)。

毛利氏

合戦後、大内氏に従って安芸分郡守護の家柄であった安芸武田氏を滅ぼし(佐東銀山城の戦い)、安芸国での優位を確立。また、吉田郡山城の戦いについて『毛利元就郡山籠城日記』で室町幕府に報告し、管領の細川晴元や六角定頼・赤松晴政などから賞賛を受けており、名実共に戦国大名として雄飛する第一歩となった。

安芸武田氏

武田信実は、尼子軍の退却と同時に、牛尾幸清らと共に出雲に逃亡した。居城である佐東銀山城には、一族である武田信重が300余りの手勢で立て籠もるが、まもなく元就によって攻め滅ぼされた。安芸武田氏の一族には、光和の庶子である武田小三郎(後の武田宗慶)が生き残って、後に毛利氏に仕えている。安芸武田氏を復興させることはなかったが、毛利氏の周防移封後に、周防武田氏を興している。

厳島神主家

家督争いの続いていた厳島神社の厳島神主家では、大内氏により隠居させられていた神主家一族の友田興藤が、吉田郡山城の戦いに乗じて天文10年1月12日に桜尾城や厳島を占領。しかし、その翌日に尼子軍が総退却し、3月には興藤の籠もる桜尾城が大内氏の大軍に包囲される。4月に興藤は城内で自害、興藤の弟で厳島神主家の当主藤原広就も五日市城で自害し、実質的にこれで厳島神主家は滅亡した。興藤自害後は、大内家臣・杉氏一族の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。

 

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