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佐東銀山城の戦い

背景

鏡山城などを奪われた大内氏は、1524年(大永4年)5月下旬、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って反撃に転じました。2万余騎の軍勢で岩国永興寺に陣を構えて安芸侵攻を開始。まず、尼子方の桜尾城主・友田興藤の配下である大野弾正を内応させて門山城を攻略し、ここに本陣を移しました。

 

戦いの経過

「安芸の夜長の暇語り」管理人・トロロヅキ氏の考察を参考に、戦場地図を描いてみました。

 

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大内軍は、義興の率いる本隊1万が桜尾城を、嫡子・大内義隆を大将とする別働隊1万5千が武田光和の籠もる佐東銀山城を包囲した。義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏重臣・陶興房が後見役として加わっている。

 

6月27日早朝

大内軍の杉重矩と問田興之は手勢を率いて、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1000騎余が陣取る「坂の上」を抜けがけに襲撃しようとした。しかし、この動きは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵によって返り討ちに(@)。

 

7月3日

城兵3000と共に籠城していた武田光和は、城外に打って出て大内軍と戦った。武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている(A)。

 

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一方、元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った経久は、伯耆から出雲の赤穴まで引き返し、救援軍5000を派遣。尼子方に属していた元就をはじめとする安芸国人衆も合流して、大内軍と対峙した(B)。

 

7月10日

牛尾幸清・亀井秀綱が率いる尼子直属軍と大内軍が激突。義隆の初陣で士気の高い大内軍が勝利した(C)。

 

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8月5日夜

元就に加えて熊谷信直・香川光景などの安芸国人衆を中心とする軍が、悪天候を突いて夜襲を敢行。不意を突かれた大内軍は500人余りが討たれた(D)。

 

8月10日

義隆の初陣に泥を塗らせないためとして、大内軍が撤退した(E)。

 

影響

武田光和は佐東銀山城を守りきったものの、桜尾城の友田興藤は10月10日に大内方に降伏し、大内軍の安芸侵攻は一定の成果をあげました。

 

一方、元就の将才は大内義興・義隆、陶興房の脳裏に刻み込まれ、翌1525年(大永5年)、大内氏は元就の帰参工作に乗り出します。3月、陶興房は知遇のあった毛利家重臣・志道広良を通じて元就に帰参の誘いをかけ、元就もこれに応じました。大内義興は大いに喜び、元就に安芸国可部・温品・深川など1300貫の知行を与えたのです。

 

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