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相合元綱誅殺

背景

当主・幸松丸急逝後に起こった毛利家の家督争い(毛利元就 vs 相合元綱)ですが、元就のブレーンである志道広良の活躍によって、結果的には重臣全員一致で元就が当主に選ばれました。対抗馬の相合元綱を推した坂広秀と渡辺勝(親尼子派)も、7月25日付の元就宛連署状では、それぞれ3番目と4番目に署名しています。

 

しかし結局のところ、不満を抑えられなかった坂と渡辺は元綱を焚きつけ、さらに尼子重臣の亀井秀綱と気脈を通じて、謀反を企てました。

 

その上を行くのが元就。すでに元綱陣営の内部には、元就が放った間者が潜入していたのです。

 

座頭衆・勝一

 

元就から元綱のもとに遣わされた琵琶法師でしたが、実は凄腕の間諜で「心様健やかにして、弁舌人に抜きん出るのみか、平家(琵琶)も又勝れて上手なりけり」。

 

盲目ゆえに警戒されることもなく、博識ゆえに元綱に重用されて、居館・船山城に足しげく通っていました。

 

戦いの経過

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元

 

1524年(大永4年)

4月某日

郡山城に戻ってきた勝一が「元綱一派の挙兵近し」と元就に報告。【@】

 

3日後

再び勝一。「明日の夜、元綱様に平家を語ります。撥(バチ)の激しいときがよろしいかと存じます」。【A】

 

ゲームでは、「船山城の戦い」として本格的な合戦を展開することになりますが、夜討ちになりました。

 

翌日

元就の命により、志道広良が300の兵を率いて船山城を包囲。館の中で平家物語を語る勝一が、突然撥で叩くように激しく琵琶をかき鳴らし始めたのを合図に、討手は乱入した。“今義経”の異名をとる元綱は凄まじい抵抗を示したが、最後には体中を弓矢で射抜かれ、倒れこんだところを槍で刺されて絶命した。【B】

 

一方、元就は口実を用いて渡辺勝を郡山城に呼び出し、現れた勝を押さえつけて簀巻きに。そのまま、郡山の崖上に引きずり出して谷底に突き落とし、誅殺した。【C】

 

さらに、坂広秀の日下津城、渡辺勝の長見山城にも兵を差し向け、一族を誅滅した。【D】

 

影響

桂一族の長・広澄は、毛利宗家の執政を代々務めた坂氏の嫡流筋に生まれましたが、分家して桂姓を名乗っていました。広澄自身は元綱事件には無関係でしたが、坂一族の嫡流としての責任をとるため、元就の制止を振り切って自害したのです。

 

子の元澄をはじめ残された一門も、後を追うべく城に籠って念仏を唱えていたところ、元就はこれを翻意させるために単身で城に乗り込み、殺気立った桂一族を相手に説得を重ねました。元就の誠意に感激した元澄らは、最後は太刀を捨てて元就の前に集まり、涙を流して平伏したといいます。

 

長見山城で誅滅された渡辺一族の中でただ一人難を逃れたのが、勝の嫡子・通。彼は備後の山内直通のもとに逃れ、成人後、許されて元就の家臣となりました。

 

時は下って1542年(天文11年)、大内氏による月山富田城攻めからの退却時、石見の大江坂七曲りで、尼子軍に追い詰められた元就の身代わりになって通は囮役を引き受け、6人の家臣たちと壮烈な討死を果たしたのです。その場所は、現在の島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂だとか。

 

腹違いとはいえ実弟を誅殺したことは、元就にとって大きなトラウマになったようで、この事件が三子教訓状のルーツになったと言われています。

 

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