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鏡山城の戦い

背景

鏡山城はもともと周防・長門の大内氏が安芸支配の拠点とするために築いた城です。

 

しかし、安芸国が大内氏と出雲・尼子氏との抗争の舞台になると、この城もたびたび争奪の対象となり、そのつど所有者を変えてきました。

 

そして1523年(大永3年)6月、大内義興が筑前国で発生した争乱を鎮めるために出兵した隙をつき、尼子経久は、鏡山城奪回を目指して月山富田城を出陣、安芸国高田郡北池田に屯営し、この時点で大内氏の傘下にあった毛利氏に参戦を要請してきたのです。

 

戦いの経過

1523年(大永3年)

6月13日

@毛利元就らは攻撃を始めたが、蔵田房信の奮戦によって城へ近づけず。

 

A膠着状態の間、元就は城内へ間諜を放って情報を集め、守将・蔵田房信の叔父にあたる副将の蔵田直信が、利欲に走りやすい性質だと知る。

 

B元就は直信のもとへ密使を送り、「房信の首をとれば、蔵田家の所領は安堵して、そなたに与えよう」と調略を試みた。

 

Cかねてより、甥の風下に立っていることに不満をいだいていた直信は、あっさり心変わりして兵を房信に向けた。

 

この裏切りの場面ですが、文献によって具体的な動きが異なっています。

 

吉田龍司著「毛利元就『猛悪無道』と呼ばれた男」

本来、直信は二の丸、本丸に房信がいたのだが、本丸が手狭だったため、房信は直信を退去させて二の丸へ移っていたのである。(中略)直信はあっさり心変わりし、直ちに二の丸へ兵を差し向けた。

 

「歴史群像シリーズH 毛利元就」

直信はたちまちこの元就の謀略にかかって、毛利軍を自分が守備する鏡山城二の丸へ引き入れた。本丸の主将房信は驚いて一日一夜防戦につとめたが、つぎつぎと麾下の将兵を討ち取られ、ついに白旗を掲げた。

 

要するに、蔵田房信が守っていたのは、本丸と二の丸のどちらなのかということなのですが、真実はいかに。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元

 

6月28日

開城。房信は、妻子と城兵の助命と引き替えに自害した。

 

影響

総大将の尼子経久は、内応した蔵田直信について「利のために逆心し、総領であり甥でもある房信を討つとは、犬猫にも劣る振る舞い」と糾弾、直信は即処刑されました。元就は弄した策を反故にされて面目を失った上、戦功一番であったにもかかわらず恩賞も与えなかったとのこと。

 

経久にしてみれば、元就の顔を潰すことは百も承知の裁定ですが、この仕打ちによって元就は経久に不信感をいだくことになります。

 

また、経久はわずか9歳の幸松丸に首実検への列席を強要。幸松丸は惨たらしさのあまりに卒倒したと『武家高名記』に記されています。

 

こういったあからさまな嫌がらせに加え、のちの毛利宗家後継問題に尼子氏が介入したことで、元就の不信感は強烈な反感に変わり、尼子氏からの離反・大内氏への帰参という動きにつながっていくのです。
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