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人物情報−あ〜こ行

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元相合の方(あいおうのかた)????〜????
毛利弘元の側室で、元就の異母弟・元綱の生母。正室の死後、杉の方と継室の座をめぐり対立。弘元の死後、毛利家の家督争いに積極的に関わった。興元没後は、尼子氏の力を借りて元綱を当主に据えようと画策。元就と対立した。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元相合元綱(あいおうもとつな)????年〜1524年
毛利弘元の三男で、元就の異母弟。「今義経」の異名をとるほど武勇に秀でた武将であった。毛利家当主となった元就に対し、反元就派の重臣に担ぎ上げられる形で元就の暗殺を企てたが、露見して逆襲を受け討たれた。尼子氏に謀殺されたとも言われる。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元阿曽沼広秀(あそぬまひろひで)????〜1597年
安芸の国人領主で鳥籠城城主。大寧寺の変の時点では陶晴賢についていたが、1554年(天文23年)の防芸引分(毛利元就と陶晴賢の断交)以降は毛利方に属し、厳島合戦・防長侵攻戦・第二次月山富田城合戦などで活躍した。

 

天野興定(あまのおきさだ)1475年〜1541年
安芸の国人領主。尼子方に属したが、1525年(大永5年)に大内配下の陶興房に居城・米山城を攻略されて大内方に転じ、以後は親大内・親毛利の立場を貫いた。1540年(天文9年)の郡山合戦でも毛利方で奮戦した。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元天野隆重(あまのたかしげ)1503年〜1584年
安芸国人衆の一人で金明山城主。母は毛利氏の宿老・福原広俊の娘で妻は福原貞俊の妹だったため、元就から厚遇され、厳島合戦や防長経略など多くの戦いで活躍した。尼子氏滅亡後は月山富田城の城代を任された。

 

尼子勝久(あまごかつひさ)1553年〜1578年
新宮党の首領・尼子国久の孫。山中鹿之介・立原久綱らに担ぎ出され、還俗して尼子再興の旗頭となる。織田信長や大友宗麟らの援助を得て、一時は尼子氏旧領の出雲を回復した。しかし最後は信長に見捨てられ、播磨上月城で毛利軍に攻められて自刃した。

 

尼子国久(あまごくにひさ)1492年〜1554年
尼子経久の次男。戦闘集団・新宮党の頭領として、尼子家中で重きをなした。新宮党の中には武威を傘に着て横柄な振舞をする者が多く、また国久自身も甥である当主・晴久とは方針を巡って対立することが重なり、次第に晴久との関係は悪化。1554年(天文23年)、子の誠久ら一党とともに晴久によって誅殺された。

 

尼子経久(あまごつねひさ)1458年〜1541年
出雲守護代・尼子清定の嫡男。寺社本所領・段銭などを押領して室町幕府から追放されたものの、まもなく勢力を回復。以後、出雲を中心に石見・伯耆、さらに山陽方面にも影響力を拡大して「十一カ国太守」とも称された。1537年(天文6年)に隠退し、以降は孫・晴久を後見。1541年(天文10年)に84歳の高齢で死去した。

 

尼子倫久(あまごともひさ)1546年〜1623年
尼子晴久の三男。月山富田城開城に際して、兄・義久とともに毛利氏に降伏。安芸円妙寺での10数年に及ぶ幽閉生活ののちに解放された。その後は、毛利氏の客将として朝鮮出兵・関ヶ原の戦いにも従軍した。

 

尼子晴久(あまごはるひさ)1514年〜1561年
経久の嫡孫。元服後の初名は詮久(あきひさ)で、足利義晴から偏諱を賜り、晴久と改名した。家督相続後、勢力拡大に尽力するも、大内氏との戦いや毛利氏の勢力伸長によって、退潮を余儀なくされる。新宮党粛清後も、石見銀山を巡って元就とたびたび争うが、その最中に富田城内で急死した。

 

尼子義久(あまごよしひさ)1540年〜1610年
晴久の嫡男で、尼子惣領家最後の当主。晴久の死去によって21歳で家督を継ぎ、2人の弟(倫久・秀久)とともに三兄弟の体制で毛利に対抗するも、3年にわたる富田城籠城戦の末に降伏。子孫は毛利家臣として存続した。

 

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)1539年〜1600年
安芸武田氏の末裔。滅亡後、家臣に連れられて脱出し、安国寺に入って出家した。その後、毛利隆元と親交のある竺雲恵心の弟子となったことから毛利氏と関係を持ち、外交僧として活躍した。関ヶ原合戦後、西軍首脳の一人として斬首された。

飯田義武(いいだよしたけ)????〜1592年
毛利水軍の中核部隊・川内警固衆の将。厳島の戦いでは元就率いる本隊を島の裏側にあたる包ヶ浦に上陸させ、奇襲攻撃の成功に貢献。織田氏との第一次木津川口の戦いでは、織田軍に包囲された石山本願寺に兵糧を運び入れるなど活躍した。

 

市川経好(いちかわつねよし)????〜1584年
安芸吉川家の一族。元就の次男・元春を吉川家の当主・興経の養子に迎えるのに尽力した。毛利氏が防長を平定すると山口奉行に任ぜられ、両国の庶政を担った。のちに嫡子・元教が大友氏に通じ、これを謀殺した。

 

井上元兼(いのうえもとかね)1486年〜1550年
毛利家臣。吉田郡山の交通の要衝を所領としていたため、強固な財政基盤を持っており、家中における影響力が強かった。次第に専横の度が高じてきたことから、元就によって、子の就兼ら一族三十余名もろとも粛清された。

大内義興(おおうちよしおき)1477年〜1529年
大内氏の第30代当主。室町幕府の管領代として将軍・足利義稙の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職も兼ねた。大内文化を創出し、根拠地・山口を「西の小京都」と呼ばれるまでに繁栄させるなど、大内氏の全盛期を築き上げた。

 

大内義隆(おおうちよしたか)1507年〜1551年
義興の嫡男で大内氏の第31代当主。家督相続後、積極的に勢力拡大を図るも、1542年(天文11年)の出雲遠征に失敗して以降、文治路線に転換して武断派の陶隆房(晴賢)らと対立。1550年(天文19年)8月、挙兵した陶隆房・内藤興盛・杉重矩によって山口を追われ、長門大寧寺にて自刃した。

香川光景(かがわみつかげ)????〜1605年
安芸の名家・武田家の麾下にあった八木城主。銀山城戦で毛利氏と対立したが、熊谷氏が武田氏から毛利方に転じると、熊谷との関係が深かった香川氏も、同様に毛利方に転じ、以後は毛利の有力な国人衆として尽力した。

 

桂広澄(かつらひろずみ)????〜1524年
毛利宗家の執政を務めた坂氏の嫡流筋に生まれたが、分家して桂姓を名乗った。坂広秀が、元就の異母弟・相合元綱を奉じて謀反を企て誅殺された事件に関して、自身は無関係であったが、一族の嫡流として責任をとるため、元就の制止を振り切って自害した。

 

桂元澄(かつらもとずみ)????〜1569年
桂広澄の長男。安芸桜尾城主を務め、厳島神社を含む神領の監督を担当した毛利家の重臣。謀略に優れ、厳島合戦に際しては陶晴賢に偽の書簡を送って厳島へおびき出すことに成功した。

 

亀井秀綱(かめいひでつな)
尼子経久の重臣。元就の家督相続に際し、相合元綱の擁立を画策する毛利家臣たちを、陰で支援した。毛利の出雲攻めに際し、杉原盛重に殺されている。秀綱に男子なく、出雲の湯茲矩が亀井家を継ぎ、信長・秀吉に仕えた。

吉川国経(きっかわくにつね)1443年〜1531年
安芸国大朝の国衆。大内義興に従って京・船岡山合戦に参陣し、のち尼子経久に従った。嫡男・元経が先立ったため、嫡孫・興経の後見を務めながら娘を毛利元就に嫁がせるなど、近隣勢力との血縁関係を結び、吉川家の土台を固めた。

 

吉川経世(きっかわつねよ)????〜????
吉川国経の子で、元経の弟。1522年に家督を継いだ甥の興経を補佐する立場にあったが、興経は暗愚であり、家の行く末を案じた経世一派は、元就と共謀して興経を廃立。元就の次男・元春を当主に迎えた。

 

吉川元経(きっかわもとつね)1459年〜1522年
吉川国経の嫡男。妻は毛利弘元の娘、妹は毛利元就の妻という重縁関係から毛利氏を尼子氏に結びつけようと努めた。有田中井手の戦いでは毛利元就との共同作戦によって武田元繁を破るなど活躍したが、父・国経に先立って死去した。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元吉川元春(きっかわもとはる)1530年〜1586年
元就の次男。12歳で父の反対を押し切って郡山合戦に初陣。生粋の武人で、父・元就をして「戦では元春に及ばぬ」と言わしめた。17歳で母の実家である吉川家の養子となる。弟・小早川隆景とともに毛利両川の一翼として毛利家の発展に尽力し、主に尼子対策を任務として山陰方面の攻略・防衛を担当した。1588年、小倉城にて病のため死去。享年57歳。

口羽通良(くちばみちよし)1513?年〜1582年
志道元良の次男。広良の弟。兄・広良の没後、主君・元就に重用され、吉川元春を補佐して山陰方面の経略を行った。元就の死後、重臣四人衆の一人として若き当主・輝元を補佐し、主家の国政の中枢を担った。

 

熊谷信直(くまがいのぶなお)1507年〜1593年
初め武田元繁に仕えて毛利氏と敵対するが、のち家臣となる。娘が元就の次男・元春に嫁いでからは元春に属し、一門衆として遇された。以降は元春軍の先鋒を務め、猛将ぶりを発揮した。

 

熊谷元直(くまがいもとなお)????〜1517年
安芸熊谷氏は治承・寿永の乱で源氏方の武将として活躍した熊谷直実の末裔。室町時代以降、守護・武田氏に従う。武田氏が尼子氏の支援のもと、それまで従属していた大内氏に反旗を翻すと、武田氏とともに尼子の傘下に入った。有田中井手の戦いで、大内方の毛利元就・吉川元経と戦い討死した。

 

蔵田直信(くらたなおのぶ)????〜1523年
安芸鏡山城主・蔵田房信の叔父。1523年(大永3年)、安芸に侵攻した尼子経久によって鏡山城が攻撃を受けた際、経久に従っていた元就の調略に応じて尼子方に寝返るが、経久によって弾劾されて討たれた。

 

蔵田房信(くらたふさのぶ)????〜1523年
大内氏の安芸における拠点・西条鏡山城の守将。安芸進出を狙う尼子経久の命を受けた毛利軍によって攻められ、房信の叔父・直信の裏切りにより鏡山城は陥落。房信は、その責を負って切腹。直信は不義者として処刑された。

己斐直之(こいなおゆき)1498年〜????
厳島神領衆の一人で、武田家元家臣。のち毛利家に仕えた。厳島合戦に際しては、囮の宮尾城の城主として籠城・奮戦した。1543年の月山富田城攻略戦にも従軍している。

 

児玉就方(こだまなりかた)1513年〜1586年
兄・就忠の推挙を受けて、毛利元就の家臣となる。就忠は行政手腕に長けたが、就方は武勇に優れた武将であった。おもに水軍を統率して,厳島合戦・大友氏との海戦・土佐一条氏攻めなど、毛利氏の主要な合戦の大半に参加し、武功を上げた。

 

児玉就忠(こだまなりただ)1506年〜1562年
毛利家譜代の家臣で、行政手腕に長けていたことから元就に厚く信任を受けた。隆元が当主になると五奉行の一人に抜擢され、元就と隆元の連絡調整役を務めた。行政には手腕を発揮したが、戦は不得手であったと伝えられる。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元小早川隆景(こばやかわたかかげ)1533年〜1597年
元就の三男。11歳で安芸の豪族・小早川氏の分家の養子となる。1550年には小早川の惣領家も相続し、その全権を掌握した。兄・吉川元春と毛利両川の一翼を担う。主として山陽・瀬戸内海方面の統治を担当し、毛利水軍の指揮官としても活躍した。豊臣秀吉の信任を受けて五大老の一人に任じられ、父以上の知将と称された。1597年、65歳で死去。

 

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