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毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元羽柴秀吉(はしばひでよし)1537年〜1598年
信長の家臣として台頭し、中国攻略の司令官に就任。彼の参謀である黒田官兵衛の地盤・播磨に前線基地を置いて、中国経略にあたった。本能寺の変の直後、中国大返しと呼ばれる強行軍の末、明智光秀を討って、信長の後継者となる。

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元福原貞俊(ふくはらさだとし)1512?年〜1593?年
広俊の嫡子。元就の信頼を得て、隆元の死後、毛利家の政策決定に参画。吉川元春・小早川隆景・口羽通良とともに四人衆の一人として、若年であった輝元の後見を務め、主家の領国支配を担った。また小早川隆景を補佐して、おもに山陽・瀬戸内方面の経略を担当した。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元福原広俊(ふくはらひろとし)????年〜1557年
志道広良と並ぶ毛利家譜代の重臣。娘は毛利弘元の正室で、興元・元就の実母である。元就の家督相続の際の起請文には筆頭に署名している。1540年(天文9年)の尼子氏安芸侵攻の際には、嫡男・貞俊を郡山城に派遣し、自身は居城の鈴尾城に籠城して奮戦した。

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元益田藤兼(ますだふじかね)1529年〜1597年
石見国・益田荘を本領とする国人領主。大内氏に属していたが、その滅亡後は、石見に侵攻した吉川元春を通じて毛利氏に属した。以後、藤兼は元春と行動をともにし、のちに嫡子・元祥に元春の娘を娶わせた。

妙玖(みょうきゅう)1499年〜1546年
元就の正室で、吉川国経の娘。彼女の兄である元経の正室は、元就の異母妹の松姫。本名は不明で、法名「妙玖」のみが伝わる。1518年、猿掛城の元就へ嫁ぎ、長男・隆元、長女・五龍、次男・元春、三男・隆景を産む。47歳で死去。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元三吉隆亮(みよしたかすけ)????年〜????年
備後国三次地方を地盤とした国人領主。藤原氏の末裔とされる。宍戸氏とともに毛利氏と抗争をくり返したが、1553年(天文22年)より元就に従属し、石見戦線などで活躍した。元就の側室・三吉氏は隆亮の妹ともされる。

村上武吉(むらかみたけよし)1533年〜1604年
能島村上水軍の当主で、「日本最大の海賊」とも称される。厳島合戦に際し、乃美宗勝の「一日だけの援軍」という言葉に惹かれて毛利方に加担。以後、毛利と深い関係を保ちつつ活動した。武吉の著とされる水軍の兵法書『村上舟戦要法』は、日本海軍によって日本海海戦の参考にされたと言われる。

 

村上吉充(むらかみよしみつ)????年〜????年
因島村上氏の当主。父の代から毛利氏に近い立場にあり、厳島合戦では小早川水軍の一翼を担って毛利方の勝利に大きく貢献した。その後も、防長経略での関門海峡封鎖や門司城攻防戦、第一次木津川口の戦いで活躍した。

毛利弘元(もうりひろもと)1466年〜1506年
安芸毛利氏第九代当主で毛利元就の父。1476年に家督を相続する。当時は周防・長門国の守護大名・大内政弘影響下の国人領主であった。大内政弘死後は、その子義興に嫡男・興元と共に従った。明応の政変で失脚した室町幕府将軍・足利義稙を保護した大内氏と、幕府の間で板挟みとなり、心労と酒毒によって39歳で急死した。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元毛利興元(もうりおきもと)1492年〜1516年
毛利弘元の嫡男。弘元の隠居にともなって8歳で毛利氏の当主となった。安芸国の他の有力国人と国人一揆を締結し、備後国でも国人対立の調停を行うなど、芸備両国の国人リーダー格として活躍した。しかし、隣接した勢力圏をもつ宍戸元源との争いは絶えず、父と同様に心の平穏を酒に求めて24歳の若さで急死した。

 

毛利幸松丸(もうりこうまつまる)1515年〜1523年
毛利興元の嫡男。わずか2歳で家督を継ぐ。このため叔父・毛利元就と外祖父・高橋久光が後見役を務めた。1523年(大永3年)、尼子氏による安芸国鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)に参加し、帰国後病死した。享年9歳。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元毛利元就(もうりもとなり)1497年〜1571年
毛利弘元の次男。権謀術数をもって中国地方に覇を唱えた稀代の謀将。「戦国最高の知将」とも評される。大内家中の叛乱に乗じて大内領を奪取し、尼子家の内紛を煽って滅亡に追い込んだ。最盛期には中国地方の大部分と北九州にまで勢力を拡大。家督を隆元に譲ったのちも実権を掌握し、次男の吉川元春を山陰に、三男の小早川隆景を山陽に配置して、盤石な支配体制を築いた。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元毛利隆元(もうりたかもと)1523年〜1563年
元就の嫡男。14歳のとき、人質として大内氏のもとに赴く。大内義隆の「隆」の一字を拝領し、隆元と命名。5年にわたる山口滞在ののち、帰国。24歳で家督を継いだ。温厚・篤実な人柄で、特に内政・調整能力に長けており、領内の経済政策に力を発揮して、毛利家の勢力拡大を支えた。1563年、尼子討伐の途中、安芸佐々部にて謎の急死を遂げた。享年41歳。

 

毛利元就,毛利隆元,吉川元春,小早川隆景,毛利輝元毛利輝元(もうりてるもと)1553年〜1625年
隆元の嫡男。1563年、父の急死によって家督を相続した。吉川元春・小早川隆景の両叔父や福原貞俊・口羽通良ら重臣の輔佐を受けて、中国地方全域に拡大した領国支配のための政策を推進し、豊臣政権下では最大級の大名として重きをなした。関ヶ原の戦いでは家中の対立に翻弄されて判断を誤り、徳川家康によって周防・長門の二カ国に減封された。

山内隆通(やまのうちたかみち)1530年〜1586年
備後国人・山内氏の当主。当主就任時は尼子氏の強い影響下にあったが、毛利元就の娘婿・宍戸隆家と血縁だったことから、彼を通じて次第に毛利氏に接近するようになり、1553年に毛利氏に服属した。毛利家では、他の備後の諸将とは別格の厚遇を受けている。

吉見正頼(よしみまさより)1513年〜1588年
石見国人で当初は大内家臣。大寧寺の変で大内義隆が陶隆房によって討たれたのち、反隆房派の急先鋒として挙兵した。厳島合戦後の毛利元就による防長経略に際しては、毛利軍と同調して山口に侵攻。大内氏滅亡後は元就の家臣となった。

渡辺通(わたなべかよう)1511年〜1543年
父・渡辺勝が相合元綱一派の謀叛に連座して誅殺された直後、通は備後の山内直通のもとに逃亡し、後に許されて元就の家臣となった。月山富田城攻略に失敗して出雲から撤退する途中、元就の身代わりになって囮役を引き受け、壮絶な奮戦の末に討死した。元就は通の献身に対し「毛利が続く限り、渡辺の家は見捨てない」と誓ったとされる。

 

渡辺勝(わたなべすぐる)????〜1524年
元就の家督相続の起請文に署名した15人の家臣の一人。その際、元就の居城・猿掛城に使者として赴いた。しかし翌年、坂広秀らとともに元就の異母弟・相合元綱を擁立して叛逆。最期は元就自身に手討ちにされ、谷底に突き落とされた。

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